富士山の噴火により堰き止められた河口湖
の度重なる増水によって湖畔住民は永年水害
に苦しみ、一方溶岩丸尾上の新倉村(現富士
吉田市)は、水不足のため常に悩まされて来
た。
この窮状の打開策として今から約三百年前
新倉村民の熱意と領主秋元但馬守の英断に
より、この正面に見える「うそぶき山」に元
禄三年はじめて隧道の掘さくが計画された。
工事は山の東西両側から同時に着工され、
苦斗十年に及んだが両坑の喰い違いから無念
の涙をのんで断念された。
然し工事は村民の執念で約百五十年後の弘
化の末に再開され、当時の幼稚な測量術と工
法のもとで二十年間不撓不屈の努力が続けら
れ、慶応二年世紀の大工事が漸く完成し、そ
の延長は実に四籵に及んでいる。
今は新隧道の開通によりこの掘抜も血と汗
の歴史を秘めたまま廃坑となり地下に眠って
いるが、掘抜の水によって富士吉田市民及び
湖畔住民の受けた恩恵は計り知れないものが
ある。
富士吉田市は新倉掘抜保存会と協力し、我
々の遠い先祖の偉業の顕彰と、併せてこの遺
跡を永く後世に傳えるため取水口であるこの
地に記念碑を建立する。
昭和五十年五月
富士吉田市長 石原茂
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