ACe建設業界
2012年5月号 【ACe建設業界】
ACe2011年6月号>碑文
 

[碑文]

吉川広嘉公像

 
 
 
 

碑文(表)


吉川広嘉公像



碑文(裏)

錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩三代目の領主で一六ニ一年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた 藩祖広家公譲りのようである
  青年時代病気療養のためしばしば京都に滞留したがそのことは人格識見を高める機縁ともなった 一六六三年父の隠退にともない家督を継ぎ一六七九年五九歳 で没するまでの一七年間内治に外交によくその手腕を振るい善政をしいた とくにかねてからの念願であった流失しない橋の架設に心血を注ぎ領内の衆知を集め さらに有能な技術者を抜擢して教育するなど長年の苦心の結果ついに一六七三年現代工学の法にもかなうこの優美にして堅ろうな錦帯橋の架橋に成功した  構造の要所に公の発想に基づくものがあるといわれる錦帯橋はまさに公の英知と善政を象徴するものである
          


 

 
 


 
酒津用水南樋門  
吉川広嘉公像  



 

[碑文]

錦帯橋記

 

 
 
 

碑文

錦帯橋記

橋名錦帯以其為帯于錦水已錦水急流在巖邑治所郭門之 前五六月之際如驟雨連日未已怒浪暴漲疾如奔馬則不可 以舟不可以梁絶往還者數矣延寶中吾先君有巧思口命工 人建飛橋爾来百數十年士庶不知其有病於濟云隄防夾水 其相距百十有餘歩中流積石作基者四髙四仭有竒基左右 角尖使莫逆於水勢而架五橋于其上而中三橋無柱従兩基 累材架起錯綜相接用銕箍之凡幾百接愈接愈近合為一條 如是者五條又有横材以維持之版于上欄于傍廣丈有半長 二十有一尋其形彎彎如跨空宛乎白虹啣尾而起實竒構也 是其大略至如其詳工人深秘而弗外泄也橋之西東皆山而 水縈囘乎其間霞翠沙明殊有景致雖他邦人必稱其勝以為 畫莫 及焉抑亦有錦帯之竒云爾假使飛橋無有則山水雖美 豈得?播其名勝於天下乎哉

 弘化二秊乙巳春三月 玉惇成撰
 明治八年乙亥秋九月 東亰 桂洲伊藤信平題額并書


 

 
 


 
酒津用水南樋門 酒津用水北樋門
錦帯橋記 錦帯橋全景



 
 
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