錦帯橋の創建者吉川広嘉公は旧岩国藩三代目の領主で一六ニ一年第二代藩主広正公の長男として生まれた その天性の聡明さは岩国城を築き岩国の町を開いた
藩祖広家公譲りのようである
青年時代病気療養のためしばしば京都に滞留したがそのことは人格識見を高める機縁ともなった 一六六三年父の隠退にともない家督を継ぎ一六七九年五九歳
で没するまでの一七年間内治に外交によくその手腕を振るい善政をしいた とくにかねてからの念願であった流失しない橋の架設に心血を注ぎ領内の衆知を集め
さらに有能な技術者を抜擢して教育するなど長年の苦心の結果ついに一六七三年現代工学の法にもかなうこの優美にして堅ろうな錦帯橋の架橋に成功した
構造の要所に公の発想に基づくものがあるといわれる錦帯橋はまさに公の英知と善政を象徴するものである
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