熊野翔太さん
曳家職人
建っている建物を、ジャッキを使って地上1~2mまで持ち上げ、更に必要に応じてレール上を移動させる技術を持つ職種です。曳家の主な目的は修復で、建物を解体して移設する場合と比べてはるかに短い工期、少ない手間で行うことができるのが特長です。
ジャッキで持ち上げる際は、荷重のかけ方を間違えると建物にダメージを与えてしまうリスク、またジャッキアップ中は地震や強風で建物が倒壊してしまうリスクがあり、文化財など希少な建物を扱うことも多いため、様々な様式の建築構造に通じる必要があり、特殊な技術・ノウハウが求められます。
熊野建設株式会社(福井県鯖江市)は、日本で唯一曳家関連の特許工法を保有する技術者集団だ。木造・RC造・S造など構造にかかわらず、曳家・嵩上げ・沈下修正・免震化といった様々な補修・改修工事に対応している。
現在は、2007年の能登半島地震で伽藍(がらん)が傾くなどの深刻な被害を受けた曹洞宗大本山總持寺祖院(そうじじそいん/石川県輪島市)の建築群の修復工事を主に手がけており、2021年の落慶(※)を目指している。
2017年には、基礎部分を耐震補強し改修するために、高さ18.3m、横幅12.8m、重量約200tの巨大な山門を20m移動させたことで話題となった。
※らっけい。社寺などの新築または修理の落成を祝う儀式。
同社は、明治時代から曳家を稼業としていた本家から、1975年、現在の熊野佳彦社長の父親の代で独立。そこから数えて3代目となる熊野翔太さんは、佳彦社長の長男で今年30歳。
「高専では『環境都市工学』、どちらかというと土木に近い分野を学んでいました。そして、4年生の頃にインターンシップで実家のこの会社に来たんです。それまでは息子の目線でしか見ていなかったし、東京の大手の会社に就職してビルを建てる仕事にも多少の憧れはありました。でも、父の営業活動や打ち合わせにもついていって、仕事の流れやゼネコンとのやり取りを目の当たりにしてから『この技術を継がないのはもったいない』って思うようになったんです」
高専卒業後、大学に編入。すでに実家を継ぐ決心をしていたため、大学では建築に関する単位を中心に取得していったという。 「高専では建築をほとんど学んでいなかったのに、編入でいきなり内容が専門的になって…その点は入ってから少し苦労しましたね。曳家は文化財を扱うことが多く、歴史的なこと、風土的なことも知識として知っていなければならないので」
翔太さんが入社した時、すでに總持寺祖院修復工事は着工しており、「大祖堂(だいそどう)」と呼ばれる法堂の修復が終わったタイミングだった。
「僕が入った頃にやっていたのが『放光堂(ほうこうどう)』。その次が山門で、やっぱりこれが一番印象に残ってますね。テレビのニュースにもなりましたし…」
他の現場も経験してはいるが、注目度の高いこのプロジェクトへの思い入れが強そうだ。
「ジャッキアップで上げるまで、つまりジャッキをセットし終わるまでに1カ月かかりました。その段取りが終われば全体の8割ができたようなものなので」
柱のある箇所を中心に、100t用のジャッキを12基セット。その1基1基の設置場所に意味があり、できるだけ少ない基数で、下から荷重をかけても文化財に負担がかからない位置を見極めてジャッキアップしなければならない。まさに「重いものを軽く上げる」が理想だが、まだ若い翔太さんにはその「段取りの神髄」まではわからない。
「『曳家の段取りとは何ぞや』…ウチの会社で20年以上やっているベテランでも、そう聞かれてすぐに答えられるのはごくわずかでしょうね。持ち上げて、何十mも動かして、元の場所に戻してまた地面に下ろす。その全工程を頭の中で思い描いて、最後の姿から全てを逆算できる人がジャッキを置かなきゃならないんで…」(佳彦氏)
翔太さんにも思い当たる節があるのか、うなずきながら父の話を聞いていた。
「ジャッキをセットする時点では、『なんでここに置くんだろう?』って思うんですが、工程が進んでいくと『そういうことか』って思わされる…そんなことが何回もありました。日々勉強ですね」(翔太氏)
てこ棒1本と滑車のかけ方ひとつで、重量物を押したり引いたり、回したり…。てこ棒と滑車の技術の粋を集めたのが曳家であり、それは寺社のような複雑な木構造物でもコンビニエンスストアなどの単純なRC構造物でも共通だという。
「いろいろと身につけたいのはやまやまなんですけど、場所や場面によっても変わってくるので、なかなか絶対的な正解は見つかりません。どんな現場でもふたを開けてみないとわからない、一発勝負みたいなところはありますね」(翔太さん)
職人としてやっていくには、曳家はもちろん、大工・壁塗り(左官)・内装など他の職種の基本も理解し、「何のためにどんな作業をしているか」くらいはわかっていなければならない。
「父からは、大工さん同士が話していたら聞き耳を立てるように言われています。わからない用語が出てきたら自分で調べるか、その場で聞け、と。昔と違って、今は教えてくれますから(笑)」(翔太さん)
理詰めでなく、経験・勘に頼らなければならない場面ではどうしているのか?
「迷った時も、一応自分で考えて、それなりに根拠のある方法でやってみます。その上で、間違いないか先輩に見てもらうようにしてますね」
翔太さんの肩書は「専務取締役」。とはいえ、入職わずか5年の若手であり、経験豊富な6人の先輩従業員にくらべたらまだまだ修行中の身であるのも事実。
「先輩たちは、厳しさ半分、優しさ半分ですね。ふだんは優しいけど、仕事では容赦ないです」
そんな翔太さんも、若手として提案・改革したことがある。
「作業着を一新したんです。キャッチフレーズは“そのまま町に出かけられる作業着”。先輩たちにも元請さんにも好評です」
カジュアルなデニムの作業着は、確かにいい意味で工事関係者っぽさがなく親しみやすい。
同社では、出張時の宿泊の際は相部屋で全員寝泊まりするのが慣習だったが、それも翔太さんの発案で個室を取るようになったという。
「プライベートな時間も大切にして欲しいですし、できるところから働きやすい環境を整えていかないと、若い技能者の入職につながらないと思います」
経営陣としての助言を行う場面も増えてきているようだ。
この世界でも担い手不足は課題で、本来4~5人で行う作業を2~3人程度で従事しなければならないことも珍しくないという。 「一般の住宅の中にお邪魔して、家主さんが食事していたりテレビを見ていたりする横で作業するようなこともあります。だからウチは、金髪・指輪・ネックレス・ピアス・入れ墨すべて厳禁です。社員を増やす時にも、そこは徹底しています」(佳彦さん)
その一方で、困った時に過去の方法を参照してヒントをつかむ…といった「情報共有」も行われている。
「僕の父が、めったにないような施工をした時にその詳細を日報に書き留めておくようなタイプだったんです。で、僕もそれを見習って帳面をつけている。その帳面は、誰でも見られるように事務所に置いてあります」(佳彦さん)
「時々メモをのぞいてみて、『なるほど』という感じで参考にしていますね。周囲からは『社長の息子だからできて当然』と見なされている。だから人の何倍もがんばらなければ認められないと思って、努力しています」(翔太さん)
曳家業界の将来を担う若手は、ここ北陸の地で一歩ずつ成長している。