ACe建設業界

ACe 建設業界【2014年2月号】

【碑文】 久米先生遺徳顕彰碑

久米民之助の銅像

久米民之助の銅像

銅像台石のレリーフ

       銅像台石のレリーフ

久米先生遺徳顕彰碑

久米先生遺徳顕彰碑

久米先生遺徳顕彰碑 【碑文 表】

久米先生遺徳顕彰碑

 久米先生名は民之助 沼田藩士
久米権十郎の長男として文久元年
八月沼田に生る 幼にして両親を
喪う 十五歳の春志を抱いて上京
工部大学に学び卒業後教官となり
宮内省御用掛を拝命皇居二重橋の
造営にあたる
 つとに先生は将来日本の発展は
土木建築にありと洞察 官を辞し
欧米を視察 帰りて建設業を始め
専ら鉄道新設工事にあたり その
業蹟は東北より台湾におよぶ
日清日露の戦後 日本の進路は
東洋開拓にありと台湾に製氷会社
満洲に煙草公司 マレイにゴムの
各事業を興し 金剛山電気鉄道に
よる朝鮮の開発に精魂を傾く
明治三十一年衆議院議員となり
四回当選 其の間特に上越線敷設
の重要性を力説す
 大正八年工学博士となり 業界
に重きをなす 他面仏教に帰依し
孝慈の徳を積み 能楽に通じ書を
能くし多趣多芸の人たり
 此処は風光天下に鳴る沼田城址
この公園こそ先生が郷土のために
財を投じ 造園寄附されたるもの
 築丘植樹配石 工成らんとする
昭和六年五月逝去 時に七十一歳
一木一石今も先生の御魂が宿るを
覚ゆ 仰いで高恩に謝し 俯して
愛護を祈るや切なり
 茲に明治百年を記念し市民及び
有志の協力を得て之を建つ
 昭和四十三年十一月三日
  久米民之助先生遺徳顕彰会

【台石表】

篆額 土岐章書
  石工 小林太一

【久米民之助の銅像 碑文】

【台石表】

忍耐

【台石裏】

沼田公園寄贈者
工學博士久米民之助翁之像

【銅像 裏】

篆額 土岐章書
  石工 小林太一

 

【壽樂園碑 碑文】

  壽樂園碑記  篆額泰山磨崖碑金剛般若經集字
沼田在徳川氏之世為土岐候封邑其地當毛越之襟喉東南望赤城山蘶然聳雲表東北
則武尊山突兀摩空子持在前三峰在右清水三國諸嶺蜿蜒横北方而刀根之水洋々貫
流其間形勝之雄城郭之壮図志可以徴焉明治中興撤藩而縣沼田城遂廢既而邑人請
官購之墾爲桑田闢為菜圃過者不復省其為城址工學博士久米君家世仕土岐侯少小
出郷成名東京從土木之業者數十年嘗回郷升故城墟崇墉毀而濬濠填殘基遺礎鞠為
茂草於是低回顧望不能去悵然歎曰噫吾負郷土久矣不図滄桑之變至此也吾将設公
園于此以傳城之遺蹟且使郷人遊焉息焉得抒懐舊安土之情庶幾足以自慰歟乃投私
財盡買収其地脩治經營築而邱鑿而池運石疏泉植以花木苔徑屈曲窈然而深登髙一
望毛越山河歴々在指顧之中園成名之壽樂而邑人輙呼曰久米公園頃沼田町謀建碑
園中介入請予記予謂世之富貴而忘故郷者何限而博士則望雲繾綣懐之不已志在報
本謀而忠慮而遠為捐巨貲而無所顧惜名園之樂與郷黨偕不敢私諸己其心也公其事
也義使人觀感之際油然生利濟之念是安得不記以傳乎哉博士名民之助號空々軒又
東山居士嚮選衆議院議員者四素有聲望土之候選者見其起皆止然博士深醜竸進終
絶意政界晩經營金剛山鐵道誕延朝鮮竒勝于世因有金剛道人之號
  昭和四巳己年十月
              早稻田大學教授天行松平康國撰
                 七十三翁翠堂松木 亮書
                     東亰青山  石勝鐫