【津田永忠 岡南大橋東詰北側の銅像の銘板の全文】
津田永忠
津田永忠は、岡山藩主池田光政公の信任を得、岡山藩学校、
閑谷学校等の造設に尽力し、嫡子綱政公の命を受け、後楽園の
造営、百間川の造築等を行った。また、元禄五年(一六九二年)
より沖新田干拓工事に着手した。
この工事は難工事で、堤防は何度築いても波にさらわれて、
工事は進行しなかった。主君を説得し、藩臣の反対を押し切り
莫大な費用をかけて工事に着手しただけに、次第と焦燥の色が
濃くなっていった。この永忠の苦衷を察して、みずから人柱に
なることを申し出たのが下女の於喜多(おきた)であった。こ
の於喜多が人柱に立ってから堤防は一度も破壊せず、工事は無
事に完成したと伝えられている。
この恩人於喜多を祭ったのが、鎮守の神として元禄七年(一
六九四年)勧請した沖田神社であり、境内には、この沖新田開
墾の功労者である津田永忠の功績をたたえる開拓記念碑および
胸像がある。
児島湖 昭和天皇歌碑
【表】
御製
海原をせきし堤に
たちて見れば
志ほならぬうみに
かはりつつあ里
甘露寺受長謹書
【裏】
天皇皇后両陛下には、昭和三
十一年四月十日に工事中のこの
堤防を御視察遊ばされ、この
御製を賜りました。この慶び
を永く後世に傳えようとして
ここに碑を建てました。
昭和三十七年三月農林省
【表】
児島湖について
昭和37年3月 農林省
この湖は、児島湾を締切って淡水とし、沿岸の水田5,140haの補給水を貯留する目的で
昭和25年6月に着手し、工費22億3,000万円(國庫負担20億5,650万円、県負担6,940万円、
土地改良区負担1億410万円)を投じて、昭和37年3月に竣工した世界第二の海面締切り
による淡水湖で、これにより米麦6万4,000石の増産が期待できます。なおこの堤防は、岡
山市と児島半島との交通、観光にも非常に役立ちます。
貯水池 樋門
貯水全量 26,072,000㎥ 構造 基礎圧気潜函、上部鉄筋コンクリート
満水面積 1,088ha 径間 12.00m
流域面積 52,000ha 門数 御幸樋門6門 弁天樋門6門
締切堤防 閘門
形式 石積囲い土(注)堤 構造 基礎圧気潜函、上部鉄筋コンクリート
標高 湖内側+4.50m 湖外側+5.50m 閘室幅 8.00m
延長 1,558.00m 閘室長 29.00m
幅員 上巾30.00m下巾90.00~160.00m 通行最大船舶 120屯
高さ 6.30~12.50m 通行方式 パナマ運河式