ACe建設業界
2011年7月号 【ACe建設業界】
ACe建設業界
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平成23年度
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天地大徳
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目次
ACe2011年7月号>天地大徳
 

[天地大徳]

説明仮説 「自然災害死史観」

 
 
 
大石久和(Ohishi Hisakazu) 国土学アナリスト

 今回の東日本大震災で示した日本人の態度は、阪神・淡路大震災のときと同様に、世界の人々に衝撃を与えるほどに秩序だったものだった。世界の人々は、「なぜ日本人はこのように、略奪もせず列の割込みもせず、いつまでも泣き叫ぶばかりという醜態も見せず、粛々と災害と愛する者の死を受け入れることができるのだろう」と考え込んでしまったのだ。

 同時にわれわれも、「海外からこのように指摘されるということは、日本人は他国民と何か異なる”あるもの”を持っているか、他国民が持っている”あるもの”を欠落しているのではないか」と考え込むことになった。

 それは、ある海外報道は教育の成果であると述べたし、ある日本の評論家は日本人独特の横並び精神がこれを生んだのだと説明した。

 しかし、教育によってはほぼ全員を一律に律するような成果は期待できるはずもなく、日本の教育の成果とするにはかなり無理があるし、日本のカリキュラムの何が独特でこのような態度につながるのかの説明がなければ意味を持たない。

 また、日本人の横並びの感覚がどのようにして災害時にあのような秩序だった態度に結びつくのかまるでわからないし、あの生活姿勢を示すことができる強い横並び感覚がなぜ日本人だけにあるのかが説明もされていない。
  したがって、説明ができないままになっているといってもいい状態だ。しかし、これに説明仮説を与えないと、「日本人特殊論」が台頭するきっかけともなりかねない危険がある。だからというわけでもないが、ここで提出する説明仮説が「日本人を規定する災害死史観」と「日本人以外の人々を規定する紛争死史観」なのである。

 われわれ日本人と、韓国人・中国人から西欧人に至るまでの、いわば非日本人との「思考の組み立て方」の違いは、民族の経験の違いに由来している。膨大な数の人の命のやりとりと厳しいぎりぎりの対峙を年中切れ目なく経験してきた者と、相対的にはほとんど経験してこなかった者との違いなのである。

 紛争死とは人に殺される死である。そこには殺した相手が必ず存在する。「彼が引き金を引かなければ」「彼が刀を振り下ろさなければ」この死はなかったはずなのだ。彼がその行為を起こさなければ生じなかったはずの死など、なぜ受け入れることができようか。

 だから、彼らにとって死とは、受け入れてはならないものなのだ。死に臨んで、いつまでも尽きることなく泣き叫ぶあの姿は、この死を拒否すると宣言する姿なのである。死は受け入れられないという態度を示さなければ、死んでいった人に申し訳が立たないのだ。

 それでも厳然としてその死はあるわけだから、その事実は受け入れざるを得ず、そのために「殺した相手を恨みぬくこと」と「復讐の誓いをたてること」が、死を受け入れる前提条件として置かれることになる。中国やヨーロッパにおいて、彼我の勢力が逆転したときに、親を殺した相手の墓を暴いてむち打ったり、遺体を掘り出してあらためて川に流したりした歴史が刻まれてきたのは、この事情によるものである。

 ところが、災害死は人に殺される死ではない。普段はわれわれのために田畑に姿を変えたり、家屋を支えてくれたりする大地が突然揺れたり、飲み水を与え作物を育んでくれる河川が急に増水して堤防を越えてわれわれに襲いかかったことで生じた死である。いわば命の源とでもいうべき自然が、気まぐれに、かつ理不尽にも、われわれを襲った結果なのだ。われわれに豊かな水産資源をもたらしてくれた世界でも有数の漁場である三陸沖の海が、突然何十メートルも盛り上がって津波となったからもたらされた死なのである。

 ここには、恨むべき相手は存在しないし、復讐など誓いようもない。この死はひたすら受け入れざるを得ないものなのだ。そうであるから、日本人はほとんど世界で唯一「死とは受け入れざるを得ないものなのだ」と考える民となったのである。

 これが、世界中が驚異の目でわれわれを眺めた阪神・淡路大震災のときや、今回の東日本大震災のときの「粛々たる静かな態度」を生んでいる。彼らにはこのような態度は決して示せないのである。だから驚異の目で見ることになるのである。

 死生観の違いといっていいのだが、あえて新語をつくっていえば「死観」の違いなのである。ところが話がここにとどまれば何の問題もないが、実はこのあとが大変なのである。

 殺人による死は備えることで防ぐことが可能になる死なのだが、大地の気まぐれな振動による死は、あらかじめ準備のしようがない死なのだということなのである。愛する者の死を避けるためにこそ、人はもっとも真剣に、もっとも必死になってその用意を考えるのである。ところが、こちらは「思う」ことはできても考えようがないのだ。

 ものごとを、いろんな角度から網羅的に合理的に検討し長期的に眺める。対象から一度離れて、やや遠くから俯瞰的に見てみる。このような態度は、準備することが可能で意味があるからこそ取り得る思考態度なのである。いつどこで何が起こるかわからないことに対しては、このような思考姿勢を持つことなどできるはずがない。

 こうして、こちらは起こってから考え、重大事になるまで問題を先送りし、暫定的な対策を考え、部分的なパッチワークで処理しようとし、起こりうることを網羅的に考えようとせず……という近代国家を運営するには実に不適当な思考回路しか用意できないのだ。

 公共事業などでの彼我の契約書の厚さの違いは、この顕著な一例である。起こる可能性がほんのわずかでもある事柄は、すべて契約書に記載してその処理方法を明確にしておかなければ、危なくて契約などできない社会と、網羅的に考えることなどできるはずもなかったがゆえに「双方が善意を持って解決にあたる」と記すことで乗り切れる社会との差の象徴だ。この懸隔は天地の差ほどに大きいのである。

 
   
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