ACe建設業界
2011年8月号 【ACe建設業界】
ACe建設業界
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目次
ACe2011年8月号>遠近眼鏡
 

[遠近眼鏡]

首絞められて人工呼吸

 
 
 
唐口徹(Karakuchi Toru)  

 国土交通省の建設産業戦略会議がまとめた「建設産業の再生と発展のための方策2011」は、そこにいろいろな施策が散りばめられている割には、受け止める建設業界はクールな、ある種奇妙な、無反応現象がある。

 もちろん、オフィシャルには「建設業界においても問題意識を共有しているものであり、高く評価する」(野村哲也日本建設業連合会会長)、「かねてから本会が要望していた『地域社会の維持』『過剰供給構造の是正』『公共調達市場と受発注者関係』などの課題に対し、その改善の方向性が示されたことを高く評価する」(淺沼健一全国建設業協会会長)―という高い評価の声が発表されている。団体長としての、ペーパーに記された公式見解とはそのような総論的な、型どおりのものにならざるを得ない。

 個人的に耳にしたのだが、ある建設経営者は「首を絞めておきながら、人工呼吸を施すようなもの」と評していた。公共事業を大幅に削減し、達成感のない過当競争状態を招きながら、再生・発展のシナリオだよ、というスタンスへの皮肉であろう。

 うーん、言い得て妙だなと思わざるを得ない。この発言に説得力があるのは、経営者ゆえの、一種のシニカルな絶望感があるからだ。競争関係でクタクタにさせられ経営の舵取りをしている身には、今回提示された過剰供給構造の是正策に一向にリアリティーを感じ得ないから、シニカルな見方が支配的になるのだと思う。

 「建設業者が多すぎる」という声は大手から中小・零細まで、建設業界に満ちあふれている。それぞれの土俵で、過剰なライバルとの競争を強いられ、だれと戦っているのかも分からず、結局は身を削って赤字の札を入れる。それでも落札できない。こうした厭戦気分が業界の全体、業界の隅々まで横溢していながら、過剰供給は一向に解消されない。もう行政には期待できない、という冷めた見方があるのである。

 旧建設省時代も含めて国土交通省は、これまで四度の産業政策を提示している。1986(昭和61)年2月の「21世紀の建設産業ビジョン」、1995(平成七)年4月の「建設産業政策大綱」、2007(平成20)年4月の「建設産業政策2007」、そして今回の「再生・発展の方策2011」である。

供給過剰は25年前から未解決テーマ

  25年前の「産業ビジョン」は、建設投資額50兆円、許可建設業者50万人の時代だが、「現在の業者数は、相当数減少すべきと思われる」と指摘して、大きなインパクトを与えた。国が、淘汰を指摘したというので、生き残り策が急速に広がったのだ。不安と混乱も呼び寄せたが、その指摘が的を得ていたからこそ「その通りだ」と共感され、真摯な論議に広がっていたのだ。こんな古い話を持ち出すのは、もはや、そのことを記憶している人がほとんどいないからだ。

 そして、25年前から過剰供給構造の是正こそが、建設産業政策の根幹だったし、建設業界が希求してきたテーマだったと言いたいのである。それに対し、技術者の資格・常駐での規制、経営事項審査制度の見直し、ボンド制度、元下関係、不良不適格業者の排除など、いろいろな政策的な知恵が出されてきた。その政策展開の努力にもかかわらず、業界の競争環境はどんどん悪化するばかりであった。25年前の50兆円、50万社からバブルと内需拡大の時代を経て、80兆円、60万社のピーク時を経て、現在は40兆円、50万社になっている。過剰供給構造は、ますます閉塞感と困難を極めている。今回の「方策2011」では、保険未加入企業の排除、技術者適正配置の徹底、欠格要件の強化、都道府県との連携強化が打ち出されているが、保険未加入企業の排除も5年後100%という目標を示したが、その実現方策は緩やかなものだ。

 厳しい競争環境が保険未加入の荒廃を招いた元凶なのに、その元凶を直撃する施策になっていない。病巣を治療せずして、行政・元請・下請の努力で「人工呼吸」しようとしている。競争環境の病巣の悪化は、明日まで持つか分からない体力となり、一刻を争う状況なのに、5年後100%目標という呑気さと療法のズレはどうしたことだろう。

 もう一つ、建設業界の反応の冷ややかさで気になるのは、いつもは議論百出となるはずの入札契約制度改革に対しても、あまり反応がないことだ。「方策2011」では、地元保護政策とも言うべき「地域維持型契約方式の導入」を打ち出した。地方建設業の疲弊と中小保護という趨勢の中では、なかなか優れたアイディア政策だと思うし、それ自体は評価したい。問題なのは、応札者が多すぎて競争が空転するという状況への施策である、「段階的選抜方式の活用」に対しても問題視する反応があまりにも少ないことだ。入札契約制度は、それこそ競争関係を左右するものであり、その意味では、競争環境悪化の病巣摘発への特効薬となるものであろう。

総合評価、もう心底疲れています

 段階的選抜方式は、「とりわけ総合評価を活用する工事においては、(中略)第一段階の競争における評価点が上位の概ね五者程度に、最終的な落札者を決めるための入札書及び詳細な技術提案等を求める競争方式の活用を推進することが必要である」というもので、それなりに効果が期待できそうにも思われる。だが、業界の反応はクールで、期待感が一向に募らない。

 その冷ややかな反応を辿っていくと、総合評価制度自体への失望感がある。総合評価制度が、本当に技術評価になっているのだろうかという不信感である。どんなにこれぞという提案をしても、落札できないというジレンマであり、どうして落札が決まるのか分からないという不信感であり、どうすれば落札できるのかという混迷である。そして、総合評価も結局は低価格しか落札手段がないという失望感である。業界全体が総合評価疲れとなり、どの企業が努力しても思うような受注に結びつかないという不満足に陥っているのである。そして各社とも、低打率に悩み、受注できない工事への投入コストを無視できなくなっているのである。

 公共工事品確法をバックボーンにして登場した総合評価制度への失望感が高まっているから、「段階的選抜方式」にも、ややっこしい方式が出てきたな、という厭戦気分しか起こらないのである。産業政策にも、過剰供給構造の解消策にも、総合評価制度にも、建設業界はすっかり疲れ、厭戦気分に傾き、憂鬱なる党派(昔、高橋和己の小説にこんな題がありました)になっているのだ。もはや「人工呼吸はたくさんだ」そう心底思っているのである。

 
   
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