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2011年8月号 【ACe建設業界】
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目次
ACe2011年8月号>建設の碑
 

[建設の碑]

禹之瀬河道整正事業竣功の碑
甲府盆地の湖水伝説

 
 
 
江口知秀 (Eguchi Tomohide) 東日本建設業保証(株) 建設産業図書館

禹之瀬河道整正事業竣功の碑

[交通]
JR鰍沢口駅下車 徒歩10分

 甲府盆地には、古くから湖水伝説が伝わっている。その昔、甲府盆地は満々と水を湛えた湖だったが、盆地の南端に位置する「禹の瀬」を切り開き、水を落として沃土を拓いたというのだ。この伝説は寺社縁起として伝えられており、各寺社によって開削者は神や高僧、または国司と様々だが、水抜きの場所は「禹の瀬」で共通している。

 甲府盆地の形状は、北を底辺、南を頂点とした逆三角形であり、北から南へ行くに従って低くなるため、ちょうど逆三角形の頂点が最低部となる。たとえるなら甲府盆地は漏斗のようなもので、周囲の山から盆地面へと流れ込んだ幾筋もの小河川は、釜無川と笛吹川の二大河川となって逆三角形の頂点へと流れ落ち、富士川と名を変えて甲府盆地を出てゆく。

 この甲府盆地の出口から1kmほどの河幅は非常に狭く、地元ではここを「禹の瀬」と呼んでいる。名の由来は、治水をもって古代中国を治め、伝説的王朝〝夏〟を創始した〝禹王〟の徳にあやかったのだという。

 ところで、甲府盆地の湖水伝説は、まったく荒唐無稽の作り話ではない。甲府盆地、とくに「禹の瀬」周辺の盆地南西部と笛吹川沿いは、たびたび湖が出現していたからだ。甲府盆地のただ一つの水の出口である「禹の瀬」が、あまりにも狭く、流下能力に乏しいため、ひとたび釜無川と笛吹川が氾濫すると、水が「禹の瀬」を十分に通り抜けることができず、あたりは洪水で湖のようになってしまうのだ。

 『CE建設業界』2011年3月号で紹介した粘土節の旧・田富町は、釜無川をここから数km上流にさかのぼるが、やはり雨が続くと一帯は湖のようになったというのだから、「禹の瀬」付近の惨状は想像するに余りある。

 その「禹の瀬」は、昨年3月に富士川町と名を変えた旧・鰍沢町の清水端付近をいう。近くには角倉了以の「富士水碑」もあるので、一石二鳥の取材になると喜び勇んで出発したが、この日の鰍沢はとても暑かった。つい3日前までは、帯広で六度の寒さに震えていたのに、こちらは30度近くもあり、気温の変化に身体がついていかず、JR鰍沢口駅を降りると滝のように汗が流れ落ちた。

 辟易しながら、「富士水碑」と「禹の瀬」を目指して1km余り歩くと、途中の富士橋のたもとに「禹之瀬河道整正事業竣功の碑」と刻まれた小さな碑をみつけた。禹之瀬河道整正事業は、昭和57年の洪水が契機となって昭和62年に着工し、平成7年に竣工したと書かれている。どうやら「禹の瀬」は、すでに拡幅されていたらしい。

 工事以前の「禹の瀬」を見ることができなかったのは残念だったが、地域住民にとっては、待ちに待った悲願の公共事業だったに違いない。富士橋を渡れば、「富士水碑」と「禹の瀬」は目と鼻の先だ。伝説の狭窄部が今はどのような姿になっているのか。前方に見える逃げ水を追うように、暑さも忘れて足早に歩きはじめた。(つづく)

碑文(表)

禹之瀬河道整正事業竣功の碑

碑文(裏)

禹之瀬狭窄部による洪水浸水
被害に悩まされ続けた沿川住民
の悲願であった開削が、昭和五
十七年洪水を契機に、河道整正
事業として昭和六十二年より着
工し平成七年三月の間、総事業
費約三十五億円と多くの関係者
の協力を得てここに第一期工事
が竣功した。

平成七年六月吉日
  建設省甲府工事事務所
  禹之瀬河道整正事業促進期成同盟会
  社団法人 関東建設弘済会

 
   
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