ACe建設業界
2011年8月号 【ACe建設業界】
ACe建設業界
特集 人づくり
 第3回 「触」
新幹線の安全確保
天地大徳
遠近眼鏡
世界で活躍する
 日本の建設企業
現場発見
BCS賞受賞作品探訪記
建設の碑
フォトエッセイ
目次
ACe2011年8月号>天地大徳
 

[天地大徳]

多角的な価値の追求

 
 
 
大石久和(Ohishi Hisakazu) 国土学アナリスト

  東日本大震災から学ばなければならないことは数多く、これらを今後の反省材料としなければならない。震災を経て憲法はじめ法制度全般について、非常時モードの規定がないとの指摘がなされ始めた。突然他国から攻撃を受けたり、領土の一部が侵略され始めるといったことを想定した法律や制度的な仕組みがまったく用意されていないのである。

  つい最近までは(一部にはいまでも)、そういった想定を準備すれば、わが国はまたアジアの諸国に迷惑をかける行為に及ぶのではないか、などという時代錯誤もいい加減にしろといいたい議論がすぐに巻き起こって、何もしてこなかったというのが現状だ。わが国の周囲の国々は民族のレベルでいえばすべて核保有国だし、通常兵器の装備レベルも数量もわが国を隔絶的に卓越しているのに何を妄論を吐くのかという感じなのだが、この議論はいつも繰り返されて消えてはいない。

  政治はこの震災を国難だと認識するといったが、領土の一部が侵され始めているというのと同様の国難事態に、「いくらかかるか」ではなく「いくら出せるか」という議論から始めているのだから、そもそも国難認識などありはしない。

  道路などのインフラの整備理念についても、状況はまったく同様だ。16年前に阪神・淡路大震災が神戸を襲ったとき、鉄道と道路のすべての幹線が被災して、日本の東西が、かなりの期間完全に分断されたことがあった。鉄道では、JR山陽新幹線、JR山陽本線、私鉄の山陽電鉄が全部被災し、道路では国道二号、阪神高速道路、山陽高速道路、中国高速道路が大きな被害を受けた。あの地震は活断層型であったが、国中活断層だらけといってもいいこの国で、たった一つの活断層が暴れただけで、国が東西に二分されてしまう事態となったのである。

  それは、山陽側に人口や産業の集積があって交通需要が多く、日本海側や中国山地には交通需要が少なかったからである。この地震後も、このことはほとんど反省もされないまま、最近ではさらに需要追随が強化され、その指標であるB/C(費用対効果)の値が、あらゆる価値に優先する状況になっている。しかし、ここで計算される効果はほとんどが交通量で決まるから、交通需要の大きさのみが道路整備の可能性や整備速度を決定することになっている。つまり、この指標は「需要が急拡大していたとき」の論理だったのだが、それが今日まで他の価値を何も考えず、たった一つの価値のみを追い求めてきたのだ。

  この考え方では、交通不便を解消することで居住地選択の自由を広げて憲法が保障する「公平」の拡大を図ったり、ネットワークの多重化を図って災害や事故によって主要都市間の連絡が切断されないようにするといった価値はまったく捨象されている。

  今回の東日本大震災では、国道45号は海岸線近くを地形に沿って這うように走っていたから、津波によって大きく被災した。しかし、三陸縦貫自動車道路は、完成していたのは一部にすぎなかったが、海岸から離れた丘陵部にトンネルや橋を多用して建設されていたため、ほとんど津波の被害を受けなかった。

  三陸道を使って救助や救急物資の搬送にあたった方からは、「この道路がなかったらどうなったことやら」ときわめて高い評価がなされている。しかし、大きな交通量が見込めないことを理由に、必要性は理解されながらも最初の開通から30年も経つというのに整備が遅々として進まず、いまだに半分しか供用できていないのである。

  大災害頻発国なのに、災害による国土分断の可能性や、ネットワークの代替性や補完性といったリダンダンシーがほとんど考慮されてこなかったというのが現実だ。これでは、災害国に住んでいる自覚があるといえるわけもない。大災害という非常事態が起こり得るということを、真剣に考えてこなかったというしかない。

日独道路ネットワーク比較(制限速度100㎞/h以上で走れる道路)
 
ヨーロッパの国の高速道路などのネットワークと比較して見ると、彼らの国は全体に国土が平坦で使いやすいということもあるが、リダンダンシー豊かなネットワークが整備されていることがわかる。特にドイツでは、はじめから戦争時にも大都市間連絡がとぎれないようにすることを意識して路線を展開しているのである。

  非常時モードの欠落は、このように憲法をはじめとする法制度から、インフラの整備理念に至るまで、わが国の各部において顕著なものがある。「日本人は安全保障の理念など何もわかっていないのだ」とキッシンジャーは嘆いたが、それは危機管理経験の貧弱さからくる思考形態の欠陥に起因する。多様な価値を求めたり、多角的なアプローチをすることが極端に苦手なのである。単一の目標しか持てないから、評価は論理的にも「行き過ぎ」か、「生ぬるい」とならざるを得ず、また現にそうなっている。

  相互に独立的である価値の追求は、価値観に矛盾がないからまだ行いやすいのだが、これすらまったく不得手なのだ。かつて、このコラムでも紹介したEUになったときの社会資本整備理念の議論を思い出してほしい。このとき彼らは、社会資本がもたらす効用を、平等公平の実現・全域の環境改善・EUの経済成長の三つの価値に分類し、このXYZの独立的要素を絡めて評価しようとした。わが国のB/Cオンリーとは、まるで異なる状況だ。悪く表現すれば、われわれには、一元一次方程式までが限度でEUの三元一次方程式は無理なのかもしれないと考え込んでしまうのである。

  おまけに、価値が相互独立的でなく、相互矛盾的だとまずお手上げだ。たとえば、わが国の経済は、デフレ、財政難、膨大な債務残高、少子化という四つの課題に直面しているが、これへの解決方法は相互矛盾の関係にあるから、何の処方箋も出せないでいる。

  アングロサクソンやゲルマンの持つ戦略思考の特徴とは、合理性であり、長期性であり、網羅性であり、俯瞰性であるわけだが、そこには「想定してはならない」ことなどあるはずもない。追求すべき価値の多様性と矛盾の克服こそ、われわれにはない彼らの思考の特徴なのである。

 
   
前号へ  
ページTOPへ戻る