ACe建設業界
2011年9月号 【ACe建設業界】
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目次
ACe2011年9月号>BCS賞受賞作品探訪記
 

[BCS賞受賞作品探訪記]

平安神宮会館
第14回受賞作品(1973年)

 
 
 

京都市民の氏神様・平安神宮を囲む緑豊かな神苑。その美しい庭園の南池畔に
神社参集殿と婚礼披露宴会場の機能をもつ施設として計画された。
優雅で気品ある建物は、近代建築に伝統を取り込み、
京都の雅な美意識を反映している。



神苑と調和した気品ある外観

正面入り口。南面道路側から建物に入る。屋根は銅板葺の和風入母屋で3mの深い庇をもつ。

 平安神宮会館は、平安神宮境内、東神苑・栖鳳池の南池畔に建っている。神苑は明治から大正にかけて、七代目小川治兵衛によって作庭された著名な庭園である。南神苑、西神苑、中神苑、東神苑からなり、東神苑は平安神宮会館の建設に合わせて、「昭和の小堀遠州」と称えられる作庭家・中根金作によって改造された。栖鳳池にかかる橋殿・泰平閣から池越しに見た会館は、銅板屋根に緑青が生じて庭園の風景と見事に調和している。建物の屋根は緩勾配の和風入母屋造で、軒は3mと深い。このため壁の存在感はほとんどない。一部に池を取り込んだ高床式で、寝殿造を想起させる優雅で気品のある建物である。

  平安神宮の建物は、明治28年平安遷都1100年紀念祭にあわせて行われた第四回内国勧業博覧会の目玉として、平安京大内裏の朝堂院を約8分の5に縮小して復元したものである。博覧会に先立って、平安遷都を行った桓武天皇を祀る神宮として創祀された。さらに昭和15年に孝明天皇が祭神に加えられ、京都市民の氏神様と称されている。

工事概要

所在地:京都市左京区岡崎西天王町97
建築主:宗教法人平安神宮
設計者:株式会社竹中工務店
施工者:株式会社竹中工務店
工期:昭和44年1月~昭和44年11月
敷地面積:69,987m2
建築面積:1,560m2
延床面積:1,811m2
構造規模:鉄骨鉄筋コンクリート造、
       中地下1階地上1階


平安神宮の機能を補う

ラウンジ。室内に雄大な庭園の景色を取り込んでいる。床は赤い絨毯で統一、天井は杉柾合板生地底目地張り。(写真:村井 修)

  平安神宮は、宮殿建築を神社に転用したものである。そのため当時の建物だけでは神社としての機能を十分に満たすことができなかった。また、神前結婚式の先駆けとして、年間約1、300組、1日最高35組の挙式が行われていたが、その披露宴会場として使用できる施設がなかった。そこで昭和43年、神社の参集殿と結婚披露宴会場の機能を併せもった施設の計画に着手することになった。

 計画に当たり責任役員の矢代仁兵衛氏を中心に建設委員が結成され、平安神宮にふさわしい建物のデザインが検討された。そして宮殿建築のイメージをもつ皇居・新宮殿と京都・桂離宮古書院を参照することになった。それは寝殿造と書院造といった日本建築の優美さを、近代建築に融合させる試みでもあった。


景観に対する配慮と現場作業の迅速化

全景。東神苑・栖鳳池の南畔に建つ。宮殿建築の寝殿造・書院造を想起させる。池には橋殿・泰平閣が浮かぶ。

 こうした京都市民の思いが設計者に伝えられ庭園に調和した案がまとめられた。そして昭和44年1月15日に着工した。敷地は狭くまた観光客の絶えない神苑に面しているため、現場では数多くの工夫がなされた。仮囲いは特に池側の景観を重視してヨシズ張りにし、湧水の処理のポンプも夜間の運転として、極力音が出ないように注意を払った。工事は建方重機の動線を確保するため建物を3ブロックに分け施工した。また外部仕上足場は3mもある軒の鉄骨を利用して吊足場とし、上下作業と安全の確保を図った。さらに内外の仕上材の寸法を標準化し、極力工場生産化を図り現場作業の縮減、施工の迅速化に努めた。これらによって約10カ月という短期間の工期で完成することができた。


最先端の技法と精神を注ぐ

鉄骨の建て方。敷地が狭く車両動線の確保が難しかったため全体を3ブロックに分けて施工した。(写真提供:平安神宮)

  この現場では数々の最先端技術と伝統の職人技が駆使されている。柱には当時建築用鉄骨として採用され始めた、鋳物の鋼管が使われた。回転する鋳型に鋳鉄を流し、遠心力で丸く肉厚をつけたが、柱は非常に頑丈で重量感があるため、そのままでは表面がざらついて雰囲気が合わない。そこで柱の表面をペンキ職人の技で、黒褐色のウレタンパテを一本ずつ叩き塗り、梨地の美しい地肌をつくり、木造柱の雰囲気を出した。サッシはスチール製で先付である。壁の設計はPC板であったが、取り付け等の施工性を検討し現場施工とし、化粧型枠を用いてコンクリートを打設、モルタルを塗らずに直接白漆喰を塗った。このため壁厚は10cmと極めて薄くシャープな線と面の仕上りとなった。屋根下地にも工夫がある。軽量化のため鉄骨の小屋組の上に木繊セメント板(鉄筋入り)をのせ、鋸屑を混ぜたモルタルを塗って下地とし、銅板を葺いた。銅板と下地の接合にはコンクリート釘が使われたが、釘のひきぬき強度と施工性のバランスを考え、鋸屑とモルタルの配合と養生期間に大変苦慮したという。このように建物は簡素な仕上がりの中に最先端技術と巧みな職人技が用いられている。


受け継がれる伝統と美意識

迎賓殿内部。桧格天井の特別室で、障子を開けるとロビーを通して庭園と一体化する。

  こうして平安神宮会館は、昭和44年11月20日に竣工式を迎えた。建物は二階建てで一階は一回り小さく半地下。棟は下に池を一部取り込んだ玄関ホールを中心に東棟が迎賓殿、西棟が栖鳳殿。迎賓殿は、栖鳳殿より一段高い。主階である二階は室を道路側に寄せ池側に帯状に連続したロビーをつくり、栖鳳池に向かって大きな開口部を設けている。床は全て絨毯敷き。天井は杉柾合板生地底目張りと桧格天井が用いられた。少ない素材で京都らしい雅な雰囲気をつくり出している。

 平安神宮会館は、市民の思いにより建てられた、京都らしさを表現した建物である。愛されながら永くこの地に建ち続けるであろう。その優美で普遍な立ち姿は日本人の雅な美意識、京都の心を表現し、また継承していくのである。

  日本学士院会館は、「アカデミックとはなにか」を追求し表現した建物である。それは建築主、設計者、施工者がそれぞれの立場で探求し発見したものである。学術的プロセスになぞらえることができるこの一連の「探求心」が、建物をより美しいものにしているのではないだろうか。その高潔で謙虚な精神は、会員の方々にも認められ、建物は現在でも大切に使われ、愛されているという。これからも、わが国の伝統と文化を継承し、建ち続けることを願う。

建築主・設計者・施工者 鼎談

平安神宮会館の建設当時を振り返って

[建築関係者]
平安神宮 禰宜 赤木尊文

[設計者]
元株式会社竹中工務店 花房文一郎

[施工者]
元株式会社竹中工務店 大久保峰生

―はじめに、皆様と平安神宮会館との関わりをお聞かせ下さい。

赤木 私は昭和43年4月から平安神宮に勤務し、最初の仕事が平安神宮会館の地鎮祭でした。当時は24歳でしたが、昭和37年より2年間住み込み実習をしておりましたので、会館の建設については、早くから要望される声が高かったことを記憶しております。平安神宮は京都市民の総鎮守・氏神様ですから、会館に訪れる人が「さすが京都」と感じてもらえるものにしていただきたいと思っていました。

花房 私は30代後半だったと思います。この仕事の前に東京で、奈良・正倉院の校倉造を参考にした国立劇場を担当したこともあり、日本建築についてはある程度研究しておりました。平安神宮会館では京都らしさをどう表現すれば良いか検討を重ねました。協議の結果、デザインは皇居新宮殿や桂離宮書院など宮殿建築を参考にすることになりました。しかしそれにしても工事の内容に比べて、敷地が狭いなと思いました。(笑)

大久保 そうですね、敷地が狭いことと、観光客に迷惑にならないように作業することに苦労しました。私は当時25歳でした。竹中工務店に入社して7年目の現場です。いくつか現場を経験してきたのですが、この平安神宮の建物で、初めて一人で現場常駐を任されました。とにかく陰日向なく一生懸命やろうと思い心をこめてやりました。

―完成された建物をみてどう思われましたか。

花房 美しい庭園に新しい建物を調和させることが中心的なテーマでしたが、成功したのではないでしょうか。池側から見た景観を考慮して、池に浮かぶ桂離宮古書院のような高床式の建物をイメージし、建物の軒は3mと深くしました。軒は建坪率に入らないので引っ込めた方が経済的だという人もいます。しかし日本の風土や雰囲気を考えると深い軒が必要だと思うのです。

大久保 この建物は素材を活かしたシンプルさの中に、当時の最先端の技術が多く使われています。主に鋳造の柱、白漆喰が直接塗られたコンクリートの薄い壁、3mも軒が張り出した銅板葺きの和風入母屋造の屋根、この三点に集約されます。当時は私も若かったので神宮、建設委員の方々にはたくさんのご指導を頂き、先生に教えられているようなあたたかい雰囲気で色々な経験ができ勉強になりました。

赤木 平安神宮をつくった伊東忠太も、琵琶湖疎水をつくった田辺朔郎も20代前半であったし、京都は若い人達がつくってきておられる。その精神がすばらしい。また京都にある歴史的建造物は、その当時の最先端の技術が必ず使われています。けっして手を抜かない。武田五一顧問、阪谷良之進設計の大鳥居も最先端の構法でつくられている。平安神宮会館も、そのような精神と最先端の技術でつくって頂いたと感謝しております。庭園の風景とも見事に調和していると思います。

花房 建設当時の日本は高度成長期で、また大阪万博を目指し建築界はとても忙しかった。そのなかで総代の矢代仁兵衛さんを初め建設委員の方々に、京都と平安神宮とはこういう間柄だということを教えていただき、大変勉強になりました。と同時にプレッシャーにもなりました。(笑)

―今後の平安神宮会館についてどのようにお考えでしょうか。

赤木 平安神宮は境内全体が国の名勝に指定され、社殿も国の重要文化財に指定されました。この平安神宮会館もいずれ文化財になることを前提に使っております。最先端の技術と精神を駆使した建物で、これから時間が経つにつれてもっと評価されてくる建物だと思います。

大久保 私もそう思います。私は街中で建てる建物とはちがう楽しさを感じていました。自然と一体となったすばらしい建築だと思います。職人さんも本当に一生懸命やって頂きました。工事を終えて、もう二度とこのような現場はないと思い、達成感と誇りを強く感じました。

花房 私も同感です。建物も本当に丁寧に使ってくださっていることに感激しました。京都あるいは平安神宮に対する心が伝わるのだと思うのです。50年100年先にも、この建物が平安神宮と共に残って欲しいものです。

赤木 幸いなことに近年、日本の国民の意識も古いものに関心を示しつつあると思います。建物を次々に建て変えていくのではなく、今ある建物を大切にして日本の良さ、京都千年の伝統と雅さをアピールする場所にしたい、そのように思います。

「さすが京都」と感じてもらえるものを(赤木)

美しい庭園にどう調和させるかが中心的テーマ(花房)

あたたかい雰囲気で色々な経験ができた現場(大久保)

 
   
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