建築主・設計者・施工者 鼎談
平安神宮会館の建設当時を振り返って
[建築関係者]
平安神宮 禰宜 赤木尊文
[設計者]
元株式会社竹中工務店 花房文一郎
[施工者]
元株式会社竹中工務店 大久保峰生
―はじめに、皆様と平安神宮会館との関わりをお聞かせ下さい。
赤木 私は昭和43年4月から平安神宮に勤務し、最初の仕事が平安神宮会館の地鎮祭でした。当時は24歳でしたが、昭和37年より2年間住み込み実習をしておりましたので、会館の建設については、早くから要望される声が高かったことを記憶しております。平安神宮は京都市民の総鎮守・氏神様ですから、会館に訪れる人が「さすが京都」と感じてもらえるものにしていただきたいと思っていました。
花房 私は30代後半だったと思います。この仕事の前に東京で、奈良・正倉院の校倉造を参考にした国立劇場を担当したこともあり、日本建築についてはある程度研究しておりました。平安神宮会館では京都らしさをどう表現すれば良いか検討を重ねました。協議の結果、デザインは皇居新宮殿や桂離宮書院など宮殿建築を参考にすることになりました。しかしそれにしても工事の内容に比べて、敷地が狭いなと思いました。(笑)
大久保 そうですね、敷地が狭いことと、観光客に迷惑にならないように作業することに苦労しました。私は当時25歳でした。竹中工務店に入社して7年目の現場です。いくつか現場を経験してきたのですが、この平安神宮の建物で、初めて一人で現場常駐を任されました。とにかく陰日向なく一生懸命やろうと思い心をこめてやりました。
―完成された建物をみてどう思われましたか。
花房 美しい庭園に新しい建物を調和させることが中心的なテーマでしたが、成功したのではないでしょうか。池側から見た景観を考慮して、池に浮かぶ桂離宮古書院のような高床式の建物をイメージし、建物の軒は3mと深くしました。軒は建坪率に入らないので引っ込めた方が経済的だという人もいます。しかし日本の風土や雰囲気を考えると深い軒が必要だと思うのです。
大久保 この建物は素材を活かしたシンプルさの中に、当時の最先端の技術が多く使われています。主に鋳造の柱、白漆喰が直接塗られたコンクリートの薄い壁、3mも軒が張り出した銅板葺きの和風入母屋造の屋根、この三点に集約されます。当時は私も若かったので神宮、建設委員の方々にはたくさんのご指導を頂き、先生に教えられているようなあたたかい雰囲気で色々な経験ができ勉強になりました。
赤木 平安神宮をつくった伊東忠太も、琵琶湖疎水をつくった田辺朔郎も20代前半であったし、京都は若い人達がつくってきておられる。その精神がすばらしい。また京都にある歴史的建造物は、その当時の最先端の技術が必ず使われています。けっして手を抜かない。武田五一顧問、阪谷良之進設計の大鳥居も最先端の構法でつくられている。平安神宮会館も、そのような精神と最先端の技術でつくって頂いたと感謝しております。庭園の風景とも見事に調和していると思います。
花房 建設当時の日本は高度成長期で、また大阪万博を目指し建築界はとても忙しかった。そのなかで総代の矢代仁兵衛さんを初め建設委員の方々に、京都と平安神宮とはこういう間柄だということを教えていただき、大変勉強になりました。と同時にプレッシャーにもなりました。(笑)
―今後の平安神宮会館についてどのようにお考えでしょうか。
赤木 平安神宮は境内全体が国の名勝に指定され、社殿も国の重要文化財に指定されました。この平安神宮会館もいずれ文化財になることを前提に使っております。最先端の技術と精神を駆使した建物で、これから時間が経つにつれてもっと評価されてくる建物だと思います。
大久保 私もそう思います。私は街中で建てる建物とはちがう楽しさを感じていました。自然と一体となったすばらしい建築だと思います。職人さんも本当に一生懸命やって頂きました。工事を終えて、もう二度とこのような現場はないと思い、達成感と誇りを強く感じました。
花房 私も同感です。建物も本当に丁寧に使ってくださっていることに感激しました。京都あるいは平安神宮に対する心が伝わるのだと思うのです。50年100年先にも、この建物が平安神宮と共に残って欲しいものです。
赤木 幸いなことに近年、日本の国民の意識も古いものに関心を示しつつあると思います。建物を次々に建て変えていくのではなく、今ある建物を大切にして日本の良さ、京都千年の伝統と雅さをアピールする場所にしたい、そのように思います。
「さすが京都」と感じてもらえるものを(赤木)
美しい庭園にどう調和させるかが中心的テーマ(花房)
あたたかい雰囲気で色々な経験ができた現場(大久保)