戦前から戦後へ、高度経済成長期から停滞期へと時代が大きく動き、
社会のニーズがめぐるしく変化するなかで日本の街並みは盛衰し、
多くの建物が寿命を全うせずに失われてきた。
しかし、そのなかで機能を転換しながら、その場所ならではの魅力を
つくり上げてきた街や建物がある。 「転」ではそのような例を取材し、今昔の歴史、風景を振り返りつつ、 いまにいたる経緯を読み込む。
横浜みなとみらい21
背後は中央地区の超高層ビル群。海に向かって高さを下していくスカイラインが形成されている。手前は横浜港の歴史を物語る新港地区の赤レンガパーク。新旧の対比が横浜独自の景観をつくりだしている。
国際客船ターミナルとなっている横浜港大さん橋は「みなとみらい21」の景観の特徴を一望することができるスポットだ。高さ約296mの横浜ランドマークタワーをはじめ、超高層ビルが立ち並ぶ「中央地区」。その前景をなすのが「新港地区」で、瓦屋根を戴き、風格を感じさせる赤レンガ倉庫と緑地が広がる。横浜市都市整備局みなとみらい21推進課の黒田係長は景観形成の主なポイントをあげる。「中央地区は未来的な景観の都市づくりのエリア。スカイラインの美しさを意識し、海に向かって徐々に降りるように、300mから60mまで段階的な高さ制限を設けています。それに対して新港地区は赤レンガ倉庫に代表される歴史的な遺構を残しているので、新築建物の最高高さは基本的に31mまでと、中層程度までに抑えられています。基調とする色彩も、中央地区の白色系に対して、新港地区はレンガ色系統とすることがガイドラインに盛り込まれています」。この地区の機能転換を図りつつ、対照的な二つの地区によって、今見る横浜らしい貌をもつ都市空間が立ち上がるまで、構想から40年が経過している。
「みなとみらい21」事業は、横浜市が飛鳥田市政下の1960年代に構想をまとめた「六大事業」のひとつ、「都心部強化事業」の中核に位置づけられる。当時の横浜市は急速にベッドタウン化し、人口は増えても、多くが東京で就業するため、横浜の都心は空洞化が進んでいた。その状況を打開し、経済基盤を築き、自立した都市をつくることを目指して「六大事業」は策定された。
そのときの横浜市の都心部は、戦後商業が発達した横浜駅周辺地区と、近代日本の開港地の一つとして歴史をもつ繁華な関内地区の二つに分かれた状態だった。「横浜駅」と「関内」の間の臨海部には、横浜港の港湾機能を担ってきたふ頭や大規模な造船所、貨物鉄道などが立地していたからだ。都市機能を強化するためには横浜駅と関内を結び、都心を一体化することが必要だった。「みなとみらい21」は、これらの施設を移転して、その跡地を埋め立て拡張し、新たに就業の場となる業務施設、商業施設、文化施設を集積した街をつくる事業として計画をスタートした。事業対象地は旧国鉄高島操車場、三菱重工横浜造船所などがあったエリア(中央地区)、その東に位置する新港ふ頭(新港地区)とされた。
横浜は江戸時代から貿易港として栄えてきたが、1960年代後半には港湾機能のあり方も時代とともに変化していた。港湾局企画調整課高村係長が経緯を語る。「開港当時の横浜港は沖に停泊した船から艀などに移して、荷役を行っていましたが、外国からの貨物のコンテナ化や、船の大型化に伴い、それまでの施設・設備では対応しきれなくなっていました。そのため、コンテナ船用の港湾施設として本牧ふ頭(1963年着工)、大黒ふ頭(1971年着工)を建設し、当時最新・大型のガントリークレーンを備えつけました」。内港地区にあった港湾機能は低下せざるを得なかった。
こうした流れのなかで、みなとみらい21の計画を受けて、三菱重工横浜造船所は新たな展開のために、1983(昭和58)年に金沢および本牧の埋め立て地への移転を完了。その後、みなとみらい21は跡地の造成工事に着手した。
一方、新港ふ頭は赤レンガ倉庫を中心に、その歴史性をふまえて再開発が進められてきた。赤レンガ倉庫は明治末から大正初めにかけて二棟が建設された、わが国を代表する煉瓦造建築の一つである。とくに二つの倉庫のうち、一号館倉庫は関東大震災で半分が失われたが、二号館倉庫は高さ約18m、奥行き約22m、全長が約150mという壮観・優美な建築がそのまま残されている。小屋組に鉄骨トラスを採用し、防火床や防火壁、鉄骨柱など、鉄とレンガを組み合わせて頑丈につくられている。設計は明治政府で大蔵省臨時建築部長を務めた妻木頼黄(1859~1916年)。官僚建築家として力を揮った人物で、デザイン力も優れていた。横浜にとって赤レンガ倉庫は歴史的な存在感をもつ建物だったといえよう。
「新港ふ頭がコンテナ化の波にのまれようとしていた昭和40年代(1970年前後)から赤レンガ倉庫を保存しようという声が上がり、倉庫の取扱い量が激減しはじめた昭和50年代(1985年前後)から保存活用についての検討が本格的にはじまりました。“ハマの赤レンガ”という愛称で長い間市民に親しまれ、地元企業や建築関連の学識経験者、文化関係者など、多岐にわたる関係者の方々の強い思い入れをもつ建物だったので、さまざまな分野の専門家や市民の方々の意見を確認し、集約する作業を行いながら、活用方針をまとめていきました」と港湾局賑わい振興課吉澤係長は語る。しかし、活用への道のりには困難もあった。赤レンガ倉庫は国有財産であり、用途を転換することが難しかった。そこで、横浜市はある決意をする。1992(平成四)年に国から赤レンガ倉庫と敷地を取得し、さらに市の普通財産と位置づけたのだ。予め使用目的を決めた行政財産とすれば、将来の活用に限界が出てくる。「港の賑わいと文化を創造する空間」という活用コンセプトのもと、「市民にとって身近な施設となるよう、文化・商業施設としての内部活用、広場での展示、即売会など、現在実現している自由度の高い活用は、このような財産形体でなくては実現できないものでした」と吉澤係長。バブル経済破綻後の景気の低迷を乗り越え、改修された赤レンガ倉庫は2002(平成14)年オープン。息の長い取り組みだった。
歴史的な施設を改修して積極的に活用しているのは赤レンガ倉庫だけではない。「横浜らしい魅力と活気のあるまちづくりのために、建物の外観をしっかり保全する一方で、内部は積極的に使っていただくよう、関係者の方々の調整を図っています」。と都市整備局都市デザイン室長谷川係長。新しい開発だけではなく古い施設を活用していくことで、この場所にしかない強いアイデンティティーを持った街が形成されている。
平成22年度の就業人口は7万9000人、来訪者数も年間5800万人に上る。みなとみらい21はさらに企業誘致や整備を進めながら、成熟の時期に入っている。
表参道の象徴として守り育てられた襷並木
1953(昭和28)年頃、沿道に欅の苗木を206本植えたという記録があるが、空襲で13本を残し焼失。昭和24~26年に植えなおした。現在欅は各々樹齢90年と60年を越え、表参道の象徴となっている。
東京・渋谷区の原宿表参道は、日本で最先端をゆくファッションストリートといわれて久しい。初夏ともなれば欅並木の枝葉が大きく繁り、若者を中心にさまざまな年代の人々が、気持ちのよい木陰の下をそぞろ歩く。華やかな表通りから一歩裏手の道を入れば住宅街が続き、そこにも洗練されたデザインや手作り感覚を生かしたショップが顔をのぞかせている。いわば個性の表現が落ち着いた環境と共存しながら、人を引きつけてきた街。それだけに街の変遷も、時代を画する出来事に満ちている。
原宿表参道の始まりは1920(大正9)年に明治神宮が造営されたときに遡る。青山通りからほぼ直角に折れて、長さ1km余の「表参道」が整備された。途中、明治通りを挟み、緩やかな上り坂を進んで神宮橋にいたる。その右手には原宿駅があった。周囲は江戸時代からの屋敷町であったが、沿道は参拝客が集まる門前町として栄えはじめたという。
その後、原宿表参道は大きく二度の変化を見る。まず、第二次世界大戦敗戦により一帯は焼け野原に(1945年)。明治神宮の森に隣接する陸軍代々木練兵場がGHQによって接収され、米軍の将校クラスの家族が暮らす住宅地域となった。「ワシントンハイツ」と呼ばれ、原宿表参道には彼らが買い求める日本土産用に、玩具や骨董品を扱う店などがあらわれた。1964(昭和39)年東京オリンピックの開催を機に、ワシントンハイツは選手村として使用され、その後整備されて代々木公園となる。こうした流れのなかで、外国の生活文化が原宿表参道の街並みに反映され、アメリカへの憧れを抱く日本の若者が集まって、アイビーファッションやジーンズなどの流行のはしりをつくった。
東京オリンピック後の展開は、建物の出現とともに語られることも多い。すでに明治通りとの交差点角にあった「原宿セントラルアパート」は、70年代にかけてデザイナー、写真家など、時代をリードするクリエーターがこぞって入居し、一階の喫茶店はマスコミ関係者が集まる場として一世を風靡。マンションの一室で、衣服をデザイン・制作する「マンションメーカー」も入居し、大手メーカーのデザインに飽き足らない若者を引きつけていく。ファッション誌がつねに原宿表参道を取り上げ、次々に流行を生みだす街として注目されていった。1978(昭和53)年にセントラルアパートの向かいにオープンした「ラフォーレ原宿」は、小規模のアパレルメーカーが集合するファッションビル。80年代のDCブランド(デザイナーキャラクターブランド)を始め、流行の発信地となった。
バブル経済が崩壊した90年代以降は外資系ブランドが出店。明治神宮や欅並木など、歴史と環境の調和がブランドイメージにふさわしいと評価し、土地を取得しているブランドもある。2006年には同潤会青山アパートを再開発し、「表参道ヒルズ」がオープン。かつてセントラルアパートがあった場所には、現在、新たな商業施設が建設中である。39年前に結成された商店街振興組合「原宿表参道欅会」は、地元の町会と協力しながら、イベントや清掃活動を通して街並みを守ってきた。事務局長の毛塚明さんは言う。「この街は商業者と住民が共生しています。文教地区に指定されていて、パチンコ店などの進出もありません。犯罪も少ない。環境の良さがたくさんの人が訪れる動機となり、商店、商品への信頼にもつながります」。大規模な商業地にはないヒューマンスケールの環境を特長としながら、ファッションの中心地となった原宿表参道。今後も欅並木を保全しながら、景観に配慮した街づくりを目指している。
都心の交通網から残され、街の便利な足へ
荒川線三ノ輪橋停留場。昭和の風情を楽しむ利用者が増え、それに応えて4年前に、レトロなデザインの新車両9000形も導入された。
都電荒川線は東京・荒川区の三ノ輪橋停留場と新宿区早稲田停留場の間、12・2kmの路線距離を53分で結んでいる。停留場は30箇所。途中に北区王子駅前、豊島区大塚駅前などJR線・地下鉄線に乗り換えられる停留場もあり、沿線住民の便利な足となっている。
都電はかつて都内の主要な交通機関として発達した。23区内の主要な道路上に軌道レールが敷設され、路面電車が縦横に走っていた。東京で路面電車の運転が始まったのは1900年代初頭(明治30年代)に遡る。複数の民間会社が鉄道事業を起こし、各社各様に路線を通していたが、公共交通機関とするために1911(明治44)年、東京市(後の東京都)がこれらを買い取った。現在の都営交通の開業であり、今からちょうど100年前のことになる。
関東大震災や第二次大戦で打撃を受けたものの、戦後の復興とともに再整備が進められ、1950(昭和25)年度の利用者は1日あたり130万人、1955(昭和30)年度に175万人まで増加し戦後最高を記録した。このとき40系統の路線が都心を往来していた。しかしその後、車社会が到来。交通渋滞が起き、電車自体の運転効率も落ちて、都電は地下鉄やバスに代替されていく。1967~72(昭和42~47)年にかけて現在の荒川線を残し、すべてが廃止に。この区間が残ったのは、代替交通機関がなかったこと、この路線のほとんどが専用軌道で、自動車と干渉しなかったためである。現在でも利用者は少なくはなく、昨年度は1日約5万人が利用している。
近年の荒川線は昭和の風情を残す電車として、一般の人気が高まっており、レトロデザインの車両が新たに導入されたり、関連イベントが開かれたりしている。だが、外観のみならず、乗車すると小規模な都電ならではの魅力にも気づかされる。朝夕は沿線の通勤通学客が主である一方、昼間は高齢者や幼児をつれた母親の姿が目立ち、買物に出掛けたり、病院や趣味の教室に通ったり、気楽に利用されている様子が窺えるのである。その理由は70歳以上の高齢者は負担の低額なシルバーパスが利用できるという都の福祉支援も大きいが、アクセスのしやすさや車内の手頃な広さもあるのだろう。停留場のホームは道路と直結しているうえに、電車が低床だからホームの高さも低い。段差もスロープで結ばれている。座席数は20~24席だが優先席が多く、席を譲るマナーもごく自然に見受けられる。短い沿線ゆえに乗客に顔なじみの人たちがいたり、そうでなくとも車内のほどよい距離感が見知らぬ同士のちょっとした会話を生み、なごやかな雰囲気が漂っている。
また路面電車は、環境に配慮した歩行者中心の街づくりの交通手段としても注目されている。次世代型のシステム開発に向けて国が支援をしており、自治体が導入を検討する例もある。周回遅れをゆっくり走るランナーは、時代とともに生まれ変わる可能性をもっている。
横浜みなとみらい21、原宿表参道、都電荒川線。これらは時代の節目や社会情勢の変化をきっかけに変貌をとげてきたが、長い歴史を背景として、それぞれに人を引きつける風景がつくられていた。
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