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2011年9月号 【ACe建設業界】
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ACe2011年9月号>建設の碑
 

[建設の碑]

富士水碑
角倉了以の富士川舟運開削

 
 
 
江口知秀 (Eguchi Tomohide) 東日本建設業保証(株) 建設産業図書館

富士水碑

[交通]
JR鰍沢口駅下車 徒歩20分

 富士橋を渡りながら右手を眺めると、青空の下に平坦な甲府盆地が広がっていた。一方、左は低い山々が間近に迫り、足もとを流れる富士川が、ゆるいカーブを描きながら山間に吸い込まれていた。民俗学では、橋は境界の象徴とされるが、富士橋は地勢をも区切っていた。

 左手の富士川両岸の山の緑は、川原まで達しておらず、比較的新しいコンクリート護岸で断ち切られていた。「禹の瀬」は少し下流のはずだが、この辺りから拡張工事がなされたに違いなかった。めざす対岸の護岸上には、車の往来が見えたので、その道を「禹の瀬」へと進むことにした。

 富士橋を渡り、下流へいくらも歩かないうちに富士水碑を見つけた。碑高は三m位だろうか。なめらかな自然石に刻まれた碑文は、舟運を拓くために河川改修を行った角倉了以を顕彰していた。

 角倉了以は京都の人で、天文23(1554)年に生まれ、江戸時代の初期に朱印船貿易と舟運開削事業で活躍した。角倉家は「京の三大長者」に数えられる豪商だったが、初祖の徳春や、了以の父親の宗桂など名医を輩出する家柄でもあった。

 商業と医業を両立する角倉家の家風は、了以にも少なからず影響を与え、人を助けて利益を受ける民間公共事業家への道を歩ませたと考えられる。舟運開削については、了以50歳のおり、備作和気川に浮かぶ高瀬舟をみて、舟底が浅いこの舟を使って、日本中の川に舟運を拓くことを決意したという話が伝わっている。開削後は通船料などを徴収して収益としたが、船が難破すれば全てが水の泡となる海外貿易と比べてリスクは少なく、河川整備さえ行ってしまえば、半永久的に収入を得ることができた。了以は富士川のほか、大堰川をはじめ高瀬川など次々と開削し、明治時代のビッグプロジェクトである琵琶湖疏水すら視野に入れていたが、彼の死によってこれは実現しなかった。

 富士川の工事は、慶長12(1607)年に着手され、甲府盆地の南端である鰍沢から河口までの約72kmを5年ほどかけて整備した。牛馬の背に比べ、水運は大量の物資を輸送できるため、富士川は甲府と駿河湾を結ぶ物流の大動脈となった。以来300年の間、富士川舟運は隆盛を極めたが、明治36年の中央線開通によって打撃を受け、昭和3年に富士川沿いを走る身延線が全通するに至って役目を終ることとなり、かつての絶え間ない舟の往来を知るものは、この富士水碑だけとなった。

 富士水碑からさらに下流へ数分歩くと、ここらが「禹の瀬」と記す小さな案内板を見つけた。しかし、富士橋のたもとから河幅は常に150m以上はあり、甲府盆地のボトルネックの面影はすでに見られなかった。現代の河川改修は、角倉了以とは異なる開削工事を富士川にほどこし、伝説の狭窄部を疎通せしめた。「禹の瀬」の名は、時がたつにつれて、いまわしい水禍の記憶と共に忘れ去られていくのだろう。

碑文

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